このページの最終更新:2010/10/31


 パラオに住む前の1995年〜1996年頃、旅行で何度もパラオに行きました。その当時に撮影した 写真から、いくつか紹介したいと思います。

ペリリュー島
飛行場に接近する飛行機から
島の遠景 1995/9/14撮影【クリックで拡大表示】
飛行場の滑走路が見えました
滑走路 1995/9/14撮影【クリックで拡大表示】
ペリリュー島の飛行場で
滑走路 1995/9/14撮影【クリックで拡大表示】
パラオの環礁の南端に位置するペリリュー島は、太平洋戦争の戦跡の島です。 島の南半分を占めた、戦前に東洋一と言われた日本海軍の航空基地があり、 1944年秋の連合軍の上陸作戦で、太平洋戦線で最大の犠牲者を出した場所として アメリカ人に有名な場所です。無論、立て篭もった日本側の軍人軍属もほぼ全滅 する悲惨な戦場だったのですが、日本人にはその前に行われたサイパン島の 玉砕戦の方が有名で、ペリリュー戦についてはあまり有名では無いようです。
かつての飛行場があった一角が、そのまま小型飛行機の発着可能な飛行場と して使われています。上の写真は飛行場にアプローチするところを撮影した もので、左の写真は飛行場に着陸した小型機です。滑走路と言っても小石が ゴロゴロする不整地で、地上ではただの広い空き地にしか見えませんでした。
港
港 1995/9/14撮影【クリックで拡大表示】
港の看板
港の看板 1995/9/14撮影【クリックで拡大表示】
ペリリュー島の地図
島の地図 1995/9/14撮影【クリックで拡大表示】
ペリリュー州旗
州旗 1995/9/14撮影【クリックで拡大表示】
援助の車両
援助の車両 1995/9/14撮影【クリックで拡大表示】
ペリリュー島の人口は 1995 年当時約 700 人で、集落は島の北部に集中して います。少ないながらも一つの「州」となっていて、当時のナカムラ大統領は この島の生まれだそうです。写真は北端の船着場で撮影したものです。 左の写真のトラックは、日本からの援助で送られたものです。また、 コロールでは滅多に見かけない二輪車(バイク)ですが、離島では運送料が 安く済むこともあってか、ペリリューでは多く見かけました。
この当時、島には無線回線による電話器が2台あるだけで、島の発電所も夜間 しか稼動していませんでした。コロールからペリリュー島に渡る方法は、 小型飛行機による空路のほか、州政府が週に2往復運行している 漁船改造の連絡船を利用するか、またはツアー会社のチャーターするスピードボート に便乗する(あるいは自分でボートをチャーターする)などでした。
放棄された飛行機
放棄された飛行機 1995/9/14撮影【クリックで拡大表示】
放棄された飛行機
放棄された飛行機 1995/9/14撮影【クリックで拡大表示】
この飛行機の残骸は、オーストラリアからパラオに飛んで来たものの、 燃料切れでペリリュー島沿岸に墜落し、所有者がトンズラしたためそのまま 放棄されたものだと聞きました。確かに垂直尾翼には、オーストラリアの レジスト番号 (VK-AMG) があります。日本で言えば外国の貨物船が座礁したまま放置 されるのと一緒な訳で、地元の人は迷惑そうにしていましたが、なかなか見れる 光景ではありませんね。
集落
メインストリート 1995/9/14撮影【クリックで拡大表示】
小中学校
小中学校 1995/9/14撮影【クリックで拡大表示】
ペリリュー北部の集落の様子です。人口 700 人ですから街の様子はさっぱり したもので、1995年当時は雑貨店が1件と民宿が数件あるだけでした。州立の 小中学校はありますが、高校はコロールに公立と私立が1校ずつあるだけでした ので、若者は高校に通うためにペリリューを出て、そのまま外へ出て行く のが普通だったようです。
戦跡
戦跡 1995/9/14撮影【クリックで拡大表示】
戦跡
戦跡 2003/2/17撮影【クリックで拡大表示】
ペリリュー島には戦跡が多数あります。この写真は「日本軍の司令部」と 聞かされましたが、実際は海軍の病院跡のようです。1995年当時は放置気味で、 1997年頃にいったん周辺の樹木を伐採して綺麗にしたのですが、2003年にはまた 樹木が生い茂っていました。南国の植物の力はすさまじいですね。 建物は爆撃でひどく破壊され、二階に上がる階段は危険なのでお勧めできません。 ただし、奥のほうにあった浴室跡と便器が、2003年の時点でも綺麗に残って いました。
日本軍の戦車
日本軍の戦車 1995/9/14撮影【クリックで拡大表示】
日本軍の戦車
日本軍の戦車 2003/2/17撮影【クリックで拡大表示】
日本軍の戦車
日本軍の戦車 1997年9月頃撮影
米軍の戦車
米軍の戦車 1997年9月頃撮影
最初の3枚の写真は日本軍の戦車で、同じ1台を撮影しています。ペリリューは 海軍基地でしたので、正式には戦車ではなく装甲車か何かなのだと思いますが、 詳しくないので…。4枚目はアメリカ軍の戦車ですが、これも戦車と言うよりは 上陸作戦の支援車両の一種でしょうね。
日本の戦車がボロボロなのに対し、アメリカの戦車はまたベアリングが生きていて 車輪が手で回るほどの状態でした。上陸作戦の経緯からすれば、日本軍戦車は 砲撃で破壊されたもので、米軍戦車は故障などで放棄されたものでしょうから、 無理ないと思います。
日本軍の大砲
日本軍の大砲 1997年9月頃撮影
ペリリュー島は全般的に平坦な地形で、日本海軍の航空基地が作られたのも その地形ゆえだと思われますが、北側に標高 100m 程度の稜線があります。 ここには "Bloody North Ridge" (血まみれの北壁) と言う英名が付いています。 連合軍の上陸作戦を迎え撃つ日本軍は、先立って行われたサイパン島上陸作戦の 経緯から水際での上陸阻止作戦は断念し、全滅覚悟でこの高地に立て篭もって 抵抗したそうです。
写真は高地の洞穴に設置された日本軍の大砲跡で、周囲には弾薬や燃料・食料 などが備蓄された時のものと思われるドラム缶や一升瓶、大砲へ弾薬類を上げるための 軌条跡などが残っています。ただし、実際の抗戦は小銃を使った狙撃が主で、 この大砲はあまり活躍しなかったのではないかと思います。
慰霊碑
慰霊碑 1995/9/14撮影【クリックで拡大表示】
戦跡
慰霊碑 1995/9/14撮影【クリックで拡大表示】
ペリリュー北部の集落にある慰霊碑の写真です。左は神社跡のようにも見えますが、 当時の鳥居が現存している訳はなく、戦後に日本人が建設したものでしょう。 ただ、ぜんぜんにはペリリュー島にも神社があったそうですから、その敷地跡 なのかも知れません。
右は前述の北壁にある、日本人が建設した慰霊碑です。隣り合った場所には 米軍の慰霊碑もあります。ペリリュー島の戦跡ツアーは、客が日本人主体なら 日本ゆかりの場所、米国人主体なら米軍ゆかりの場所、とコースを変えて行って います。猛暑の中、一日で全てを回るのは無理がありますので、出来れば両方に 参加するのがいいでしょう。ただ、1995〜2003年当時、島在住のツアーガイドは 英語だけで、日本語ガイドが必要な場合、コロールから日本語ガイドを同行させる 必要がありました。
スイミングプール
スイミングプール 1997年9月頃撮影
南国の離島と言うとどこでも泳げそうですが、実はペリリュー島の海岸はあまり 泳ぐのに適していません。南岸はリーフの端なので太平洋の荒波が直接 押し寄せ、中部と東岸はマングローブ林で立ち入り自体が困難です。ビーチ のある箇所も、のんびりするにはいいのですが、遠浅すぎて水深があまり無く、 海底の変化も少ないのでシュノーケリングも楽しくないのです。
そこで、地元の人は島の東部にある、"Swimming Pool" と呼ばれる、 水が溜まった自然の洞穴で泳ぎます。あまり解像度のよくない写真ですが、 これはそれを撮影した ものです。


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